なるほどね。東京都水道歴史館をぶら散歩
・サッカー通りから本郷2丁目へ
「湯島4丁目」のバス停から、なだらかなサッカー通りを歩いていくと、サムライブルーが際立つ「日本サッカーミュージアム」を右手に、まもなくして本郷通り「サッカーミュージアム入口」の交差点に出ます。信号を渡り、右側壱岐坂方面に歩き2本目の路地を左折すると「順天堂横」の交差点です。横断歩道を渡ると電柱に指示標識があり、2本目の路地を左に曲がると本郷給水所(水道局本郷庁舎1号館)の隣、歩道脇にあるお水に関連した4枚のプレートを見ながら東京都水道歴史館の正面にでました。歴史館は平成7(1995)年に開館してます。
・2階、江戸の水道管
1階では、近現代水道の展示がありますが、まず2階の江戸上水ヒストリーから見学します。ちなみに、音声ガイダンスがあり入館と同じく貸出無料です。現在は、「江戸の水道管ー木樋ー」展が5月15日(日)まで開催しています。そこで、2階見学通路のはじめに展示されている資料は長く大きい木筒ようで、これが江戸時代に多く使用されていた「木樋(もくひ)」という水道管でした。当時は「きどい」と呼ばれていたそうです。角材の中を削いで作った細い木樋(彫樋)から、中口径のものでは木板を数枚合わせて船釘で繋ぎ、漏水防止には木の甘皮を砕いて繊維にしたもの(槙肌)を詰めていたとの事です。これは木造船の技術を応用して製作されていました。木の材質は檜、彬、赤松、栂などの針葉樹が使用され、槙肌には檜や高野槙の甘皮を柔らかく加工し繊維状にして撚りをかけて紐状にするようです。展示されていた槙肌は細く弱々しい形状に見えましたが、漏水防止をする重要な素材であることに驚きです。
・そういえば?神田上水と小石川後楽園
そもそも、江戸上水の誕生は小石川上水から発展した神田上水です。井の頭池の水を水源とし関口大洗堰(現在の文京区立江戸川公園)を経て小石川の水戸藩屋敷に水を入れてました。さらに、水道橋の東側で神田川の掛樋から神田、日本橋方面に給水されています。当時の風景は、歌川広重の「東都名所 御茶之水之図」の錦絵から見ることが出来ます。そういえば?、過日ぶら散歩しました小石川後楽園には「神田川上水」の標識がある小川がありました。あの広大な庭園にある大池や稲田、さらにいかなる干ばつにも絶えることがなかった不老水の存在等が、「なるほどね」と水道歴史館にて解明いたしました。その後、明治34(1901)年に飲用水としての利用を終えた後、水戸藩跡地は兵器工場(東京砲兵工廠)になり工業用水になったそうです。
・感動!玉川上水ものがたり
慶長14(1609)年頃、江戸の人口は約15万人とされ神田上水をはじめ既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が迫られていました。承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れようと壮大な計画を立ててました。展示スペースでは、この壮絶なドラマをアニメと人形劇で紹介しています。工事請負人の庄右衛門と清右衛門兄弟は、努力と苦心の末、全長43km、標高差わずか約92mの「自然流下方式」による導水路を通す壮大なプロジェクトを成し遂げました(上水記説)。承応3(1654)年に玉川上水は開設し兄弟はその褒章として玉川の姓を賜っています。
・長屋寄席コーナー
長屋の様子を再現している空間があり、さらに江戸庶民の暮らしについて指南してくれるご隠居が?お囃子「ツクテン・ツクテン・ツクテンテン」についつい手が踊ります。
・3階には
水に関する資料を揃えたライブラリーがあります。見学した際には、木樋や和釘などを直接触ることができるスペースがありました。木材のささくれ、釘の錆に注意しながら、木樋の感触を体験してください。
・1階に戻り、世界に誇る東京水道に感謝
幾たびのあらゆる災害を乗り越えて成長した東京水道の歴史が、映像と実物大の模型を通してみることが出来ます。好奇心をそそられたのは、牛馬用・犬猫用・人間用と三つの水飲み場が設けられていた水道栓があったとやら、馬水槽の原寸模型が展示されています。一方、進化する現代の水道では、住居地まで何所からどのように運ばれているかを確認できる貴重なスポットです。
・隣接する本郷給水公苑
歴史館正面口から門を出る前、左側の建物脇に進んでいくと本郷給水公苑に出ます。そこでは、昭和60年代に発掘された神田上水遺跡の石樋一部(移築)と復元した水道管を見ることが出来ます。また、公苑内にある薔薇園がとても見事でした。種類の多さに目を見張りましたが、公園内の大きな地球儀にも驚きです。お楽しみに!
・帰り道
石樋脇に戻ると別の出口があり階段を降りて左を見ると、行きに通った順天堂横の交差点が見えます。その交差点を右に曲がり滑らかな坂を下っていくと外堀通りです。左に行けば茶水(お茶の水)です。「ツクテン・ツクテン・ツクテンテン」本日はここまで。