文月に台東区池之端をぶら散歩
・下谷茅町本邸
無縁坂を下り、不忍通りにぶつかる一つ手前の通りを右に曲がります。そのまま石垣にレンガ塀が続き、まもなくすると旧岩崎邸庭園の出入口になります。現住所は池之端1丁目ですが、江戸期には茅町といわれ徳川四天王といわれた越後高田藩・榊原式部大輔の中屋敷がありました。明治維新後、屋敷は政府によって西郷隆盛の側近であった桐野利秋(中村半次郎)に払い下げられます。しかし、まもなくして桐野が西南の役で戦死したため再び政府へ返還されました。引き続き、旧舞鶴藩主の牧野弼成が所有しますが住んでいたという証拠はなかったようです。その後、1878(明治11)年に三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎は、莫大な金額を投じてこの地を購入します。当時の岩崎家は、春日通りを挟んだ湯島天神近くの梅園町に住んでいましたが移り住み本邸にしたとされています。
・初代から三代目へ
本郷台地の東端にあり、筑波山や房総半島が遠望できるこの地に、岩崎彌太郎は立派な家を建てようとしていましたが、1885(明治18)年に亡くなってしまいました。その後、彌太郎の子息である岩崎久彌が三代目当主となり結婚後には迎賓館を建てたといわれています。1877(明治11)年には、イギリスから建築家であったジョサイア・コンドルが日本政府からの招聘を受けて、現在の東京大学工学部の教師として来日しました。都内にある旧岩崎別邸ほか、西洋建築物を次々に建てていきます。明治時代、西洋建築物の建設はいわば国家の至上命令とされ、来賓は洋館で迎える時代でした。岩崎邸には、併せて建坪550坪、20数棟の和式住宅を建設し3年以上の期間を要したそうです。
・庭園
岩崎邸の庭は、それまであった大名庭園の形式を一部踏襲したと言われていますが、後に埋められた池部分には高麗芝が敷かれ、庭石、灯篭、築山が設けられた和洋折衷の「芝庭」に改造されたようです。残念ながらその後の戦争により、岩崎邸は米軍に接収され射撃の練習の的などにより黒松や灯篭など壊され、さらに1953(昭和28)年には国の所有から法務省の管轄になり書記官研修所として利用されたことから、庭にトラックを造るなどした結果芝庭は破壊されてしまいます。現在、当時の遺構はほとんど残っていませんが、大名庭園の一部を残しています。庭園の奥には石畳みがありました。
・帰り道
庭園をあとに砂利道を踏みしめながら入ってきたゲート口に戻ります。因みに、入場料は一般個人で400円です。庭園および洋館、和館は靴を脱いで入園できます。出入口から通りを右側に進むと湯島の天神下交差点です。さらに春日通りを下ればJR「御徒町」駅です。現在、旧岩崎邸庭園では未開園地の整備計画がおこなわれています。来年の今頃には新たな庭園内を悠々散歩できそうです。本日はここまで。